男根

【だんこん】名詞

同義語

同品詞の類義語

肉棒文芸的
巨根文芸的
剛直文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

熱き槍文芸的
欲望の剣文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

鋼の如く文芸的
大蛇のごとく文芸的

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

激しく文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

突き上げる文芸的

体言的言い換え

用言を体言に変換

欲棒文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

逞しい一物文芸的

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器官ではなく、できることの名

漢訳仏典を読んでいると、身体の各部を「根」と呼ぶ場面に何度も出会います。眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根——六根清浄という言い方に残っているあの六つです。ここでの根は、梵語インドリヤの訳語にあたります。インドリヤが指すのは肉の塊としての器官ではなく、そこに宿る働き、見る力・聞く力・触れる力そのものです。阿毘達磨の体系では二十二の根が数え上げられ、そのなかに男根と女根が並んで置かれています。つまりこの二字熟語は、成り立ちからして部位の名ではありませんでした。何ができるか、どのような方向へ身体が開かれているかを名指す語だったのです。

訳語に「根」の字が選ばれた理由は、植物のほうを見ると腑に落ちます。根は地表に出ません。葉や花や実が目に入るのに対して、それらを成り立たせている部分は土の下にあって数えられません。日本語の身体語彙にも同じ発想が入り込んでいて、歯根や舌根は、外から見える部分の続きが暗がりへ潜っていく境目に名を与えています。根治という語に至っては、見えているものを取り去っても足りないという判断そのものを含んでいます。見える部分は結果にすぎず、働きは見えない側にある——訳経僧がインドリヤに「根」を当てたとき、この含意まで一緒に持ち込まれました。

哲学が身体をめぐって長く争ってきたのは、まさにこの点です。身体を眺められる対象として扱うかぎり、それは世界の中に置かれた一個の物になります。しかし現に生きられている身体は、対象である前に、世界へ向かう能力の束として働いています。メルロ=ポンティが「私はできる」という言い方で示そうとしたのはその層でした。階段を見て、上れると分かるとき、私は膝の角度を計算していません。できるという了解のほうが、器官の知識よりも先に立っています。仏典が身体の各部を能力の名で呼んだ体系と、二十世紀の現象学が到達した記述は、まったく別の道を通りながら同じ地点に触れています。

ところが、能力を名指していたはずの語は、いつでも記号へ横滑りします。二十世紀の人類学や図像研究は、この部位が世界各地で豊穣や境界防御の標識として立てられてきたことを記述してきました。標識になった瞬間、それは誰かの身体の働きであることをやめ、他者に読まれるための形になります。承認をめぐる哲学の議論が繰り返し指摘してきたのは、見られる位置に置かれた身体が、自分の能力から切り離されて評価の対象に変わるという事態でした。象徴として立てられた形は、当人が何をできるかについて、もはや何も語りません。

いま日本語でこの二字が使われる場所を見ると、医学書、仏教辞典、民俗誌、翻訳された論文といったあたりに偏っています。和語や隠語の層とは異なり、漢語のこの語には温度がありません。感情を運ばず、笑いも侮蔑も帯びず、ただ指示だけを行う——術語として設計された語の、これは長所です。そして術語であるという性格は、由来からの一貫でもあります。もともと能力の分類表の一項目だった語が、いまも分類する側の文章で使われ続けている。有限な身体をひとつずつ数え上げようとした古い体系の手つきが、二字のなかに残っています。

文: hakadoru.ai 編集部

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