使い古された音が最もよく響く——R18小説と擬音の逆説
陳腐化の最も速い語彙が、なぜ手放せないのか。反復と間の設計という側面から、その逆説を考えます。
R18小説ほど擬音が酷使される領域はなく、そして擬音ほど摩耗の速い語彙もありません。定型の音列は無数の作品で反復され、読み慣れた読者の目はそれを風景のように素通りしていきます。それなら全部削ればよいかといえば、そうもいきません。擬音を抜いた濡れ場は、輪郭は正確なのに温度の抜けた図面のようになりがちです。最も陳腐化しやすい語彙が、最も手放しにくい。この逆説が、この領域で擬音というものを考えるときの出発点になります。
なぜ手放せないのでしょうか。擬音は、文の組み立てを経由せずに律動だけを運べる、数少ない書き言葉だからです。主語も述語も持たない音の連なりは、読む速度をそのまま場面の速度に重ねます。同じ音の反復は動きの反復を、反復の間隔は呼吸の周期を、紙の上に写し取る。地の文がどれほど精緻でも、文である以上は意味の理解という迂回路を通ります。意味の説明としてではなく拍として働く語彙——それが擬音の、ほかの言葉では代わりのきかない仕事です。
その拍を刻む道具立ては、仮名表記の慣習としてすでに整っています。促音の「っ」は音の断ち切りを、撥音の「ん」は響きの残りを、長音の「ー」は引き延ばしを表す書き分けです。同じ「とん」という音でも、「とん、とん」と間遠に置くのと、「とんとんとん」と詰めるのと、「とん——」と引くのとでは、流れる時間の密度がまるで違います。何が起きているかを一切変えずに、どう時間が流れるかだけを変えられる。身体の速度を扱う文章で擬音が要になるのは、この操作性ゆえです。
一方で、型に寄りかかるほど読者は素通りします。見慣れた音列は先が読めてしまい、先の読めるものを目は読み飛ばすからです。ここで語彙を奇抜にする方向へ逃げると、たいてい失敗します。読めない音は頭の中で再生されず、再生されない音は身体に届きません。手垢を嫌って音を飾り立てるほど、律動を運ぶという本来の仕事から、かえって遠ざかっていくことになります。新奇な語の発明競争は、この領域では早々に袋小路へ入る種類の勝負のように思われます。
出口は語彙ではなく配置にあります。同じ平凡な一語でも、頻度を絞り、間隔を揺らし、長い地の文の呼吸のあとに一語だけ落とせば、その音はふたたび聞こえるようになります。楽譜と同じで、使える音符の数は増やせなくても、休符の置き方は無限に設計できるのです。読点と三点リーダは休符であり、改行は息継ぎに当たります。擬音の列を書き終えて何かが物足りないとき、語を入れ替える前に、まず間のほうを疑ってみる価値があります。
つまりR18小説における擬音の技術とは、珍しい音を探す語彙の技術ではなく、ありふれた音をいつ鳴らすかという時間の技術です。読者の身体に速度を伝えているのは語そのものではなく、語と語のあいだに設計された沈黙のほうかもしれません。次の一場面を書くとき、試しに擬音をひとつだけ減らし、空いた場所に句読点の間を置いてみてください。減らした一語よりも、そこに生まれた間のほうが雄弁に働く瞬間に、きっと出会えるはずです。