迂回する言葉が官能を深くする。R18小説と婉曲の伝統
もっとも直接的な語がもっとも早く摩耗するという逆説を、検閲の時代に文学が磨き上げた迂回の技法から考えます。
官能を書く語には、独特の宿命があります。直接的な語ほど使われるたびに手垢が付き、喚起する力が目減りしていくのです。言語学には、禁忌に触れる対象を指す婉曲語はやがてそれ自体が露骨に感じられるようになり、新しい婉曲語が次々と必要になる、という現象の指摘があります。婉曲表現のトレッドミルと呼ばれることもある、この止まらない回転の上に、性を書く語彙もまた乗っています。強い語を選べば強く書けるという直感は、この摩耗の速さを見落としています。
文学は、この宿命と長く付き合ってきました。検閲や摘発のあった時代、書けないことを書くために、作家たちは迂回の技法を発達させます。比喩に託す、場面を転換して時間を飛ばす、事後の静けさだけで事前を語らせる。日本でも1950年代には『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳が法廷で争われました。制約は表現を痩せさせるだけのものではなく、痩せさせまいとする側の技巧を鍛えもした——今日の書き手が使える婉曲の語彙は、その鍛錬の蓄積の上にあります。
迂回はなぜ官能を強めるのでしょうか。機序そのものは単純で、読者の想像を動員するからです。明示された像は一つに固定されますが、暗示された像は読者それぞれの内側で結ばれます。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で示したのは、翳りがあってこそ美が立ち上がるという見方でした。隅々まで照らされた部屋よりも、光の届かない奥行きを残した部屋のほうが深く見える。描写にも同じ力学が働きます。書き切らない部分は空白ではなく、読者が自身の感覚で満たすための余白です。
日本語には、この迂回を支える厚い層があります。和語と漢語と外来語、その上に文語と口語の別。「肌」と「素肌」と「柔肌」では、同じ対象を指していても場面の照明が変わります。文語に寄った語は場面を静かに格調へ引き上げ、口語に寄った語は体温と湿度を近づけます。同じ行為を書くのでも、どの層から語を汲むかで文章の濃度は変わるのです。官能的と評される文章は、多くの場合、露骨さの度合いではなく、この層の選択が行き届いた文章です。
ただし、迂回が常に上等というわけではありません。婉曲が過ぎれば像を結ばず、読後には気取りだけが残ります。直接的な語には直接性の効用があり、雅語で満たされた頁にただ一つ置かれた直截な語は、落差のぶんだけ強く響きます。問題は迂回か直接かという二択ではなく、配分です。どこまでを言葉にし、どこからを言葉にしないか。その線引きの精度がそのまま文章の官能の精度になり、濃度は語の強さの総量ではなく、強弱の設計から生まれます。
語彙を尽くした上で、なお書かないことを選ぶ。選ばれなかった語は消えてなくなるのではなく、選ばれた語の背後で沈黙しています。読者はその沈黙の厚みを、不思議と感じ取るものです。言い換えの候補を広く知ることの目的は、より露骨に書けるようになることではありません。どこで筆を止めるかを、選べるようになることです。言い尽くす力を持つ書き手だけが、言い残す位置を選べます。抑制が偶然ではなく設計になったとき、迂回はようやく技法の名に値します。