めくる指のために——R18小説と紙の書物が交わす官能
頁の終わりが必ず訪れる紙の書物の条件を、升目の上でどう先取りできるのか、めくる指のことまで考えてみる一篇です。
横書きの画面は、切れ目のない一枚の長い巻物です。指はスクロールを送り、文章はどこまでも続きます。紙の書物は違います。どんな判型で組まれても頁は必ずどこかで尽き、読み手はめくるという動作を差し挟み、そのわずかな一瞬、物語から手元の紙へと意識が戻ります。この中断は読書の欠陥ではありません。書物という形式が長い時間をかけて磨き上げてきた、リズムの部品です。そして二十字×二十行の原稿用紙は、切れ目なく流れる画面の文章に、この中断を書き手の側からもう一度持ち込んでみるための道具になります。
頁の最後の行には、独特の力が宿ります。文の途中で頁が尽きれば、読み手は続きを求めて指を急がせ、場面の終わりと頁の終わりが重なれば、めくるまでの一呼吸がそのまま余韻になります。書き手が意図していなくても、本の改ページは本文に切れ目を刻んでいます。ただし、その切れ目が正確にどこへ落ちるかは判型と組版が決めることで、書き手には選べません。原稿用紙の四百字ごとの区切りは、未来の本の切れ目を言い当てる予言ではなく、思いがけない位置で断ち切られたとき自分の文章に何が起きるかを、刊行より先に試してみる実験のほうに近いのです。
日本の出版史に目を移すと、性を扱う書物は古くから、紙の形式と分かちがたく結びついてきました。江戸期に艶本や春本と呼ばれた書物群には、挿絵と本文が同じ見開きに同居する造本が多く見られます。文章だけで感覚を運ぶのではなく、頁を開く手つき、見開き全体の構図、絵と文字の呼応までが、一つの体験として設計されています。そうした造本の思想は、性を描く文章が読み手の身体の側の体験と切り離せないことを、ずいぶん早くから知っていたように思われます。
濃密な場面ほど、一文は長くなりがちです。感覚の連なりを途切れさせまいとして、読点でつなぎ、修飾を重ねる。その息の長い文を縦書きの短い行に流し込むと、一文が何行にもわたって縦に降りていき、紙面の上で自分の文の長さが露わになります。畳みかけたかったのか、引き延ばしたかったのか。行数という尺度は、意図と結果のずれを静かに教えてくれます。描写の中身に立ち入らなくても、リズムの設計だけは紙面から読み取れるのです。
四百字一枚という単位は、場面を測る物差しとしても使えます。ひとつの場面が立ち上がってから果てるまでが何枚に伸び、緊張の持続する箇所では升目がどれだけ詰まり、息を抜く箇所でどれだけ白が増えるのか。枚数を数える作業は、分量の確認であると同時に、緊張と緩和がどんな間隔で並んでいるかを確かめる構成の下見でもあります。そして升目の区切りが機械的で、こちらの意図を汲まないことは、欠点ではありません。意図しない位置に落ちてくる切れ目だけが、中断に耐える箇所と、中断で失速する箇所との違いを、書き手に教えてくれるからです。
もちろん、原稿用紙の頁の切れ目が、そのまま刊行された本の切れ目になるわけではありません。判型が変われば、めくりの位置はすべてずれます。それでも変わらないことがひとつだけあります。読み手の指は、どこかで必ず動くという事実です。升目の上で確かめられるのは切れ目の正確な位置ではなく、自分の文章が中断に耐える箇所と耐えない箇所の分布のほうです。感覚のいちばん近くで読まれる文章にとって、どこで途切れても熱の逃げない書き方を探しておくことは、中身を磨くのとは別の系統に属する技術です。艶本の造本が早くから知っていたとおり、読むことは、指の関与する身体の営みなのですから。